がんになって5年たった

初詣に行ってきた。今年は近所の小さな神社に行った。境内は閑散としていて、並ぶことなく参拝できた。「今年も健康に生きられるように」とお祈りをした。健康を祈るのは何度目だろうと振り返った。今年で6回目だ。そうか、がんが見つかってから5年たったんだなと、改めて思った。

 

がんが見つかったのは成人を迎えた年の6月で、ちょうど大学の期末試験が始まる前だった。ある日、保健所から電話が掛かってきて、健康診断で影のようなものが見つかったから再検査しよう、と言われた。確かに最近、明らかに体調がおかしかったので、何だろうと思っていた。

大学病院に行って検査をした。悪性リンパ腫という血液がんだと分かった。告知を受けた時はあまりショックはなかったが、親に話す時がとても辛かった。

親を呼んで、寮を引き払い、大学に休学届を出した。休学届を出す際に、学類長と少し話をした。大学の事務の話をし出して、なんで今そんな話をするんだと思ったことを覚えている。

 

 

実家に帰り、地元の大学病院で再々検査をし、赤十字病院で入院治療を受けることになった。病気が見つかってから治療を始めるまで3日ほどしか間がなかった。すごく目まぐるしかった。

早速抗がん剤による治療が始まった。抗がん剤と聞くと、物凄いネガティブなイメージ(髪が抜ける、嘔吐する、何も食べられなくなる......)が自分の中であったが、いざ治療を受けてみると、案外そうでもないな、というのが最初の治療後の感想だった。食べ物の制限などもあまりなかったので、そこまで治療による不自由はなかった。

  

自分の治療はABVD療法という、リンパ腫において標準的な治療法で、4種類の抗がん剤を組み合わせた治療を受けた。

最後のダカルバジンという薬はかなり曲者で、血管の中に熱湯が入ってくるような痛みを感じる。めちゃくちゃ痛い。ほんとに痛い。光に不安定らしく、ダカルバジンの点滴をする際には、薬剤から点滴のチューブにかけて遮光してもらって、さらに部屋をできるだけ暗くしてもらっていた。

治療期間は、2週間単位で行われる。1日目に抗がん剤、2日目に白血球の減少を抑えるための注射をする。そこから12日間は安静、という流れになる。これを2回繰り返して1クール、という単位になる。なので、大体1クール=1ヶ月になる。

最初の2週間だけ入院治療で、あとはずっと外来治療だった。聞くところによると、治療しながら仕事する人もいるらしい。自分にはできないなと思う。

 

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治療室

 

最初の抗がん剤治療を受けて入院している間は、ひどく退屈だった。周りがお爺さんばかりで、自分だけ世間から取り残されてしまった、という感覚があった。ずっとYoutubeを見ていたが、それも通信制限が掛かってからはずっと外を見るかテレビを見ていた。

嬉しかったことといえば、たまに地元に残っていた友達がお見舞いにきてくれて、その時はとても嬉しかった。あと、入院中に隠れて食べた吉野家の牛丼が最高に美味しかった。

途中から、隣のベッドに、同じく白血病になって治療している少し年上のお兄さんがやってきた。同年代の人が増えてほっとした。少し話もした。彼も会社の健康診断で病気が見つかったと話していた。悲しそうな顔に見えた。自分もそういう顔をしているのだろうか。健康になりたいなと思った。

 

2度目の抗がん剤治療を受けてからは、実家に帰り療養、外来による治療に変わった。退院したその日に坊主にした。

抗がん剤を打ってからの12日間は相変わらず暇だ。と言っても、最初の1週間は副作用が強くて、あまり動いたり、遊んだりというのは難しい。最初の3日間は特に倦怠感が強く出た。味覚もほとんどないので、味の強いお菓子やポカリなどで過ごしていた。残りの5日ほどはかなり元気が戻るので、外に出たり、美味しいものを食べに行ったりしていた。そうやって最初の2クールを過ごした。

夏になって、大学のグループ授業で一緒だった子が、地元までお見舞いに来てくれることになった。すごく遠くから来てくれることに対して、嬉しさもあったが困惑もあった。実際に会ってみると心配してくれていたみたいで、迷惑をかけたなと思った。

それからも何回か地元に会いに来てくれて、付き合うことになった。自分と付き合うことで、また彼女には迷惑をかけてしまうかもしれないという葛藤もあったが、結果的には付き合って良かった。元気な頃に、何回か大学の方にも行った。彼女や大学の友達が、自分を受け入れてくれたことが嬉しかった。

病気になっている間に大学の方まで行ったのは良かったと思う。治療の終盤は、早く治して大学に戻りたい、と思うようになっていた。

 

 

ただ治療経過はというと、あまり思ったようには治らなかった。最初の数クールで、浸潤をかなり小さくすることができていたようだが、寛解にはなかなか至らなかった。結果的には最大クールである8クール治療することになった。8クール目になると、副作用もだいぶ強くなっていて、これで治らなかったらどうなるのだろう、と陰鬱とした気持ちが強くなった。

運よく8クール後に寛解を宣言された。嬉しいというよりは、ようやく、という気持ちの方が強かった。

寛解と言われたのが3月だったので、4月、滑り込むように大学に復学した。

 

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大学生活は、とにかくストレスを溜めないことを心がけた。勉強も根を詰めない程度にした。移動で体力を使いすぎないように、親に車を買ってもらった。すごく古いラパンで、夏になるとエアコンが効かなくなるポンコツ車だった。だけど、愛着があった。ラパンのしょぼいスピーカーから音楽を流して運転するのが好きだった。その頃はceroのOrphansを良く聞いていた。

 

www.youtube.com

 

神様の気まぐれなその御手に掬いあげられて

私たちはここにいるのだろう

 

友達の紹介で、ソフトウェアを作るアルバイトを始めた。時給も良くて、かつ完全リモートだったから、助かった。これは情報の学生のメリットだと思う。週に何日か、そのアルバイトをしつつ、大学で程々に勉強して、たまに彼女とドライブする、という生活をしていた。

夏と春の休みはインターンに行った。開発が楽しかったので、エンジニアになろうと思った。春にインターンに行った企業に就職することに決めた。働きすぎるかも、と最初は少し不安ではあったが、こうして再発せずにいるので、良い環境なんだと思う。インターンの流れで就職が決まったので、成人した時に買ったリクルートスーツは、結局一度も着ることがなかった。

 

 

大学の4年生になって研究室に配属された。第一希望の研究室には入ることができなかったが、配属された研究室で、海外発表しにボストンに行けたのは良い経験だった。

冬のボストンは、酷く寒かった。11月に渡米したが、マイナス10度になる日もあった。秋の格好で行ったのは完全に間違えていた。発表をなんとかこなして、何日か観光した。MITの広さに迷子になったり、地下鉄が臭くて参ったり、ロブスターがあんまり美味しくなくてガッカリしたり、ダラスの空港でも迷子になって泣きそうになったりしたが、思い返すと良い思い出ばかりだ。

 

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ワンダーランド行。ボストンにて。

 

そして、そうこうしている間に社会人になった。療養中や、大学にいた頃に比べると、自分ががんであることについて意識することはかなり減っていた。ただ、ストレスを溜めないように、という気持ちだけはずっと意識しながら生活していた。

趣味としては、ボルダリングを始めた。1年以上続いている。会社の同僚と週2回くらい行っている。飽き性の自分がこんなにスポーツを続けるとは思わなかった。過去の自分と定量的に比較し、成長を感じ続けることができることがこのスポーツの面白い部分だと思う。とはいえ、あんまり上手くなってないし、後輩にすぐ抜かされたりしている。

去年の夏に彼女と同棲生活を始めた。親に挨拶にも行った。彼女とは、がんから寛解してからもずっと関係が続いている。これからも関係が続くと良いなと思う。

 

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この5年は俯瞰してみると、健康的だし、順調だったとも思う。もちろんその中で体調や気持ちの浮き沈みはあれど、再発せずに、そして精神的に参ることなく過ごせたことは、素晴らしいことだった。

去年は病気の患者にとって大変な年だったと思う。看取られることなく、または、どこにも行けずに、不本意に亡くなってしまった人もいると聞いた。自分は、運が良かったかもしれない。

次の5年間で、他の人のことも考えられるようになりたいと思う。この5年は、自分のことばかりを考えていた。自分の問題をある程度クリアしたから、その余裕を他のことにも向けたい。それと同時に、納得のある人生にしたい。来年の初詣は、自分の健康以外を祈ることができるように生活したい。

最後に、療養中に自分が一番感銘を受けた、夜と霧の一節で締める。

 

わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。(中略)わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。 ヴィクトール・E・フランクル. 夜と霧 新版